BEAN TO BAR を始めたわけ

初めまして、いとま というクラフトチョコレートメーカーを主宰している鬼塚創と申します。

私は、物を生み出すことが自分の存在意義であり、その創造物を通じて世界とコミニケーションをとることが自分の幸せだと考えている人間です。

なぜ山梨でBEAN TO BARチョコレートを作っているのか、そこへ至った理由をご説明致します。


夢やぶれて故郷にかえってきた


デザイナーとして日本の織物産地で働いていた頃、私は心身をすり減らしていました。

「安く早く大量に」というものづくりの流れと、自分の理想と信じるものづくりとのギャップに納得出来ないまま無理な働き方を続けた結果、いわゆる鬱状態に陥り、療養のために故郷の山梨へ10数年ぶりに戻ることにしました。服作りこそが自分の生きる道だと信じて進んできた私が、始めて立ち止まり、深く考える時間を与えられました。


ファッションの世界で生きたかった


振り返ると、私は人との関わりに臆病ながら、人一倍気を使い、他人の評価を気にしすぎる人間でした。自意識過剰で自分をよく見せようとする、自分を守るのに必死で周りを傷つけまくるやばい子供でした。

なぜそんなに人の目を気にするのか、おそらく自信がなかったからです。小中学生の頃は体が小さく、特に小学生の頃は女子を含め学年で1番背が低かった。周りとくらべて、自分はなんて劣っているんだろう、と常に感じていました。田舎の閉鎖的なコミニティも息苦しかった。人と違うことが、自分にとってネガティブなことだったのです。


そんな私が、東京のファッション専門学校に進んだことで、価値観は大きく広がりました。個性や多様性に寛容で、「人と違っているほど良い」というファッションの世界に魅了されました。4年制の専門学校、そして2年制のファッションデザイン専門職大学院を経て、兵庫県の織物メーカーへ就職。「衰退する産地へ飛び込んだ若者デザイナーが新しい商品を作って産地を救う」といったストーリーでメディアに取り上げられ、「ガイアの夜明け」に出演するなど、注目を集めました。


しかし、結局はうまくいきませんでした。原因は様々ありますが、正直なところ、当時の記憶は曖昧です。



夢が叶わなかったあとの、人の生き方


鬱状態から回復した後、もう一度ファッションの世界に戻ろうとは思いませんでした。あの頃の魔法が解けてしまったのかもしれません。今の自分のままではきっと同じことになる、別のアプローチでファッションと関わろう、そしてそれは今すぐじゃなく、人生のもう少し後の方で。

それよりも、頑張って、頑張りすぎた結果壊れてしまった自分だからこそできることは何かと考えました。


今を懸命に生きる人の手助け


今の私が願うのは、「生きるのが楽になったな」「自分のままでいいんだな」と、誰かに思ってもらえるような何かを作ることです。ファッションの世界で知った「違うほど面白い」という価値観と、辛い時の息抜きの重要さ。この二つを併せ持つプロダクトこそ、私が世の中に届けるべき価値のあるものだと確信しています。


自分に立ち戻る数秒を


私が作りたいのは、ほんの数秒でも、息抜きの休憩となり、多様な世界を美しいと思えるような、そんな物です。

与えられた役割や集団の中での立ち振る舞いから解放され、自分自身の五感で感じる、自分だけの時間。それは、何もしない贅沢な時間。朝の数秒、仕事中の数秒、寝る前の数秒。そんな短い時間でも、次への活力となるような五感に訴えかけるプロダクト。それが、食にまつわるもの、チョコレートでした。


そしてBEAN TO BAR へ

 

既存のチョコレート業界は、素材の個性をできる限り消し、均一なものをより安く作る、まるで私が変えたいと思っていた世界そのものでした。しかしその中で、豆の個性を引き出し、少量生産するBEAN TO BARという新しい考え方のメーカーが生まれ始めていることを知りました。

以前働いていた会社の東京出張所が蔵前にあり、出張のたびにダンデライオンチョコレートに通い、1顧客としてクラフトチョコレートは好きでした。


豆それぞれの個性を引き出した、様々な味わいのチョコレートは、「違いを味わう時間」

組織の意志や集団での役割とは無縁の、自分の五感と感情だけを使い、「自分に立ち戻る数秒」


これが今の自分が届けたい、この世界でちょっと楽に生きられる、かもしれないプロダクト。


そう気づいてからの2年間、独学でチョコレート作りの試行錯誤を重ね、コツコツと機材を揃え、研究の日々を送りました。そして今、ようやく人様にお出しできるクオリティのチョコレートを作れるようになり、クラフトチョコレートメーカーを始めるに至ったのです。

 

ブログに戻る